草刈正雄ファミリーヒストリー!「初めて知る米兵の父 97歳伯母が語る真実とは」 - ダンス&ボーカルファン
PR

草刈正雄ファミリーヒストリー!「初めて知る米兵の父 97歳伯母が語る真実とは」

TV番組
当ブログにはプロモーションが含まれています

再ブレイク!?といわれるほど、いまや大人気の草刈正雄さん。

2023年8月に放送されて大反響を呼び、神回といわれた草刈正雄さんのファミリーヒストリー「初めて知る米兵の父 97歳伯母が語る真実とは」。

12月にはその続きとなる『特別編~アメリカへ決意の旅路~も放送されましたね。

草刈正雄ファミリーヒストリー特別編!アメリカへ決意の旅路

今回は、草刈正雄さんのファミリーヒストリー「初めて知る米兵の父 97歳伯母が語る真実とは」をご紹介します。



草刈正雄プロフィール

草刈正雄(くさかりまさお)

生年月日:1952年(昭和27年)9月5日
出身地:福岡県京築地域生まれ、同県小倉市(現・北九州市)出身
高校:福岡県立小倉西高等学校定時制→東京都立青山高等学校定時制に転校
身長:185cm
血液型:O型
利き手:左利き
事務所:自身の個人事務所であるバービィオフィス所属



草刈正雄ファミリーヒストリー!「初めて知る米兵の父 97歳伯母が語る真実とは」あらすじ

取材を開始したのは、2022年の夏。

草刈正雄さんは、生まれた当時から母と二人きりでした。

父は、日本に駐留したアメリカ兵。

しかし、顔も知らなかったのです。

母は「朝鮮戦争で死んだ、写真は焼いた」と草刈さんに伝えただけで、死去してしまいました。

制作班は、草刈さんの記憶にあった「ロバート・トーラ」という人物を全米で探します。

しかしスペルが分からないため、取材は難航を極めました。

そして半年後。

ある追加情報が決め手となり、ノースカロライナで暮らす父の親族にたどりついたのです。

草刈さんは、NHKのスタジオで、初めて父の顔写真と対面します。

父の名前は「ロバート・H・トーラー」。

初めて知る、父の容姿や性格。

伯母やいとこの存在とともに、父が朝鮮戦争から生還していたという衝撃の事実が判明するのです。

また母との出会いも明らかになります。

「なぜ父は母のもとを去ったのか」

父の姉が70年間胸に秘めていた真実を、ついに告白することに。



草刈正雄ファミリーヒストリー!母方のルーツを探る

日本では、母方のルーツを探る調査が進められていました。

母・スエ子さんの故郷は、福岡県行橋市です。

戸籍をさかのぼり、行橋市に保管された幕末の資料を調べると、先祖の名前がありました。

草刈家は農業に携わっていました。

そして、曾祖父・高蔵さんの代になると、農業以外の事業にも手を広げます。

地域の方の話では、草刈家は、天ぷらやかまぼこを製造し、小売店を営んでいたといいます。

高蔵さんが作ったタラのすり身のかまぼこは、近所でも評判だったのだそう。



草刈正雄ファミリーヒストリー!母・スエ子の生い立ちを探る

草刈さんの曽祖父・高蔵さんは、わずか39歳の若さで亡くなってしまいます。

高蔵さんの次女であり、草刈正雄さんの祖母であるイシさんは、17歳で口減らしのために結婚しました。

昭和7年、長女のスエ子さん(のちに草刈さんの母)が誕生。

しかし、夫は酒癖と女癖の悪い人でした。

生活は荒れ果て、スエ子さんが7歳のときに両親は離婚してしまいます。

スエ子さんは奉公に出されることになりましたが、17歳のときに路線バスの車掌になったのです。

当時の女性のあこがれの職業に就くことができたスエ子さんは、ようやく安定した生活を手に入れることができました。



草刈正雄ファミリーヒストリー!父方のルーツを探る

草刈家の戸籍は、父親の欄が空欄となっています。

昭和28年、草刈正雄さんは非嫡出子(婚外子)として生まれました。

番組の取材班は、母方の親戚から父親の情報を集めようとしましたが、誰もが名前さえ知らないという状況に直面しました。

草刈さんが母親から聞いた情報が、唯一の頼りでした。

父親の名前はロバート・トーラーだということ、朝鮮戦争で戦死したということ、祖父にあたる人物が郵便局で働いていたということ。

この3つの情報だけが頼りという状況で、番組は調査を進めることとなりました。

アメリカの公的機関のサイトを利用し、スペルの候補とともに、朝鮮戦争にかかわった可能性のある年齢層、そして父親の職業が郵便局員である人物を絞り出していくという、気の遠くなるような作業が始まったのです。



草刈正雄ファミリーヒストリー!父の親族からの手紙

父方の調査は、行き詰っていました。

しかし、過去の草刈正雄さんのインタビューから、「父の出身はノースカロライナ」という発言が発掘されたのです!

そこで、「ノースカロライナ州」「ロバート・トーラー」のキーワードで検索対象をしぼってみると、候補はだいぶ絞られてきました。

そして、該当する人物たちに手紙を送り続けたといいます。

すると、なんと1通の返信が送られてきたのです!

差出人は、ロバート・H・トーラーの甥と名乗る人物でした。

草刈さんとは、いとこ同士にあたる関係の存在です。

取材班はすぐにその人物に会うため渡米。

待っていてくれたのは、ジェイ・カラハムさんでした。

ジェイさんは、自身の母から日本にいとこがいることは聞かされていたのですが、そのいとこについての情報は何もなかったといいます。

そこへ、取材班からの手紙が届き、インターネットで草刈正雄さんの写真を調べたところ、ジェイさんの10代の頃と驚くほどそっくりだったそうです。

ジェイさんは、草刈さんとはいとこ同士であると確信しました。

そこで、2人のDNA検査を実施したところ、97%の確率でいとこであることが判明したのです。

なんて感動的な出来事なのでしょうか。

初めて父方の親戚が見つかったのです!

ジェイさんの母親もとても喜んだといいます。

そして、ジェイさんは97歳の母、ジャニタ・カラハムさんのところへ取材班を案内してくれました。

ジャニタさんは、草刈さんの父・ロバートさんの姉であり、正雄さんの伯母に当たります。

ロバートさんの20代の頃の写真を見せてくれたジャニタさん。

写真に写るロバートさんは、草刈さんの若いころを思わせるほど、容姿端麗な男性でした。

さすが親子。

2人はそっくりにみえました。

番組スタジオで初めて父の写真を見た草刈正雄さんは、胸がいっぱいで言葉に詰まっていました。

「似ていますね」と、笑顔をみせた草刈さん。

「かっこいいですよね」とつぶやく草刈さんの表情が、とても素敵でした。



草刈正雄ファミリーヒストリー!父・ロバートの生い立ちを探る

祖父の9人兄弟は、全員が南北戦争で兵士に志願しました。

しかし、祖父のゼブロン・トーラーさんだけ、軍人になる代わりに郵便局員になったといいます。

貧しい子供たちにお金をあげるなど、とても優しい人物だったそうです。

しかし、50代の頃にペラグラという病に侵され、痛みと絶望に打ち勝つことができず、自らを銃で撃つという、あまりにも悲しく壮絶な最期を遂げました。

その3か月後に、草刈さんの父であるロバート・トーラーさんが生まれたのでした。

ロバートさんが幼いころ過ごした家がいまでも残っています。

ゼブロンさんが亡くなった後、一家は困窮し、ロバートさんはウェイターのアルバイトをして家計を助けていました。

ロバートさんは、その容姿と人柄から、女の子たちからとても人気があったといいます。

18歳で軍人になったロバートさんは、福岡の築城基地に配属されています。

1950年に朝鮮戦争が起きたときは、韓国の金浦空軍基地で、父と同様に郵便物を運ぶ仕事をしていたそうです。

草刈正雄ファミリーヒストリー!父と母の出会いと別れ、そして正雄の誕生

ロバートさんがいた築城は、スエ子さんが働いていた路線バスの休憩地でした。

2人の出会いは、この町で、1人しか通れない橋でお互い譲り合ったことがきっかけとなったのだそうです。

まるでドラマのような展開ですよね。

2人はすぐに交際に至り、同棲を始めました。

その後、ロバートさんは東京の基地に配属されることになり、スエ子さんも一緒について行きました。

すでにスエ子さんのお腹には赤ちゃん(草刈さん)がいたので、東京での新しい生活を夢見ていたことと思います。

しかし、2人は別れることになったのでした。

スエ子さんは、地元福岡県行橋市に戻ります。

そして、スエ子さんは、同級生の友人に助けてもらいながら、家族にも内緒で出産しました。

一方、父・ロバートさんは、幹部候補学校に進学して将校になるためにアメリカへ帰国していました。

しかし、姉のジャニタさんの話では、ロバートさんは日本での出来事を誰にも話すことができず、精神を病んでしまったというのです。

その後、ロバートさんは西ドイツの陸軍に入隊しました。

草刈正雄ファミリーヒストリー!母と子の生活

スエ子さんは、アメリカのロバートさんに向けて手紙を書きましたが、受け取ったのはロバートさんの母と姉でした。

しかし、生活に困窮していたトーラー家には、スエ子さん親子を助けてあげることもできませんでした。

姉のマーガレットさんは、わずかなお金と、状況を記した手紙を同封し、スエ子さんに返事を送りました。

その手紙で、スエ子さんはすべてを悟り、子供と2人で生きていくことを決意したのです。

当時はまだ外国人に対する偏見も強かった時代でした。

米軍兵と日本人女性の間に生まれた子供が増え、「あいの子」などと差別をうけることも多かったのです。

スエ子さんは、しがらみのない小倉へ移りました。

草刈さんが幼少期を過ごした小倉で、スエ子さんは一日中働きました。

スエ子さんは草刈さんが周囲から偏見の目で見られないよう、厳しくしつけ、身だしなみにも気を配っていたそうです。

スエ子さんは、とても芯の強い女性だったのだと感じました。

その証拠に、草刈正雄さんが今のように立派な男性として成長したのですから。

草刈正雄ファミリーヒストリー!親子3人のその後

草刈さんは、中学卒業後すぐに働き、定時制高校の学費を稼ぎました。

そして、17歳のときにアルバイト先のスナックのマスターから東京のモデル事務所を紹介され、その後スカウトされます。

当時の初任給が1万数千円といわれるなかで、上京後は月5万円の収入を得られるようになったといいます。

きっと、母親を助けたいという思いで、業界に飛び込んだのでしょう。

草刈正雄さんは、日本人離れした容姿と、その爽やかな人柄で、すぐにモデルや俳優として人気を集めました。

そのころから、スエ子さんも少しずつ父親のことを話すようになったといいます。

スエ子さんは決して父のことを悪くいうことはありませんでした。

それどころか、とてもハンサムだった、本をよく読む賢い人だった、と繰り返し伝えていたといいます。

そんなふうにいつも尊敬している様子が、草刈さんを安心させたそうです。

スエ子さんは、2010年に脳梗塞で亡くなりました。

一方、1953年にアメリカ陸軍として西ドイツに渡ったロバートさんは、2013年、がんのため亡くなったそうです。

最後まで、日本での出来事を口にすることはなかったといいます。

なんと、ほんの11年前まで、ロバートさんは生きていたのですね。

生きているうちに、父と息子が会うことができていたら、また何かが変わっていたのでしょうか。



草刈正雄ファミリーヒストリー!伯母・ジャニタからの手紙

そんなロバートさんの秘密を抱えてきた、姉のジャニタさん97歳。

「正雄に渡してほしい」と、取材班は一通の手紙を託されました。

番組では、日本語に訳したものが読み上げられました。

親愛なる甥へ

あなたを見つけられたことが 私にとってどれだけうれしいか
言葉にならないほどです
70年間 あなたのことをずっと思い続け 心配してきました
あなたのお母さまが私たちにくれた手紙には 戦後間もない日本で
アメリカ人との間に生まれたあなたを育てていくことへの不安が
つづられていました
この出来事を 私はずっと心の奥にしまっていました
私は今97歳です
あなたの素晴らしいお母さまがあなたを立派に育ててくれたことを知り
心から嬉しく思っています
私の家の廊下には すべての親族の写真が飾られている思い出の壁があります
あなたとご家族の写真もここに加えられたらうれしいです
これからもあなたに幸せと成功があることを願っています

どうか どうか 私たちに会いに来てください
みんな心から喜ぶでしょう
あなたのことを思って 涙を流す日々はもう終わり
これからは笑顔だけです

あなたの伯母ジャニタより

この手紙は、草刈さんの手に渡りました。

草刈さんは、子供のころからモヤモヤしていたことがすべて明らかになり、こんな幸せな日はないと語っていました。



草刈正雄ファミリーヒストリー!草刈正雄の決断とは

今回、日本の親戚が見つかったことを心から喜んでいるトーラー家。

取材班は草刈さんのいとこ・ジェイさんを訪ねました。

すると、ジェイさんの家の廊下には、たくさんの親戚の写真に囲まれて、草刈さんとスエ子さんの写真も飾られていたのです。

その5枚の写真は、インターネットで真剣に探したのだそうです。

草刈さんの写真を初めて見ることができたジャニタさん。

「素敵じゃない!わたしにそっくり」ととても嬉しそうでした。

草刈さんは、スタジオ収録のあと、ひとつの大きな決断を下しました。

アメリカの親戚に会いに行く決断をし、ジェイさんにメールで知らせたのです。

そして、7月末に、草刈さんは渡米しました。

草刈さんは、割り切れない気持ちも抱えていました。

父が、自分と母親のもとから去ったという事実。

母は大変な苦労をしたであろうこと。

そのわだかまりが消えたわけではありませんでした。

とても悩んで迷ったけれど、ジャニタさんの手紙が心にしみたのだと。

ジャニタさん、ジェイさん、そして草刈さんは、涙ながらに喜んでいました。

時代と運命に翻弄された家族たちが、長い長い年月の末、海を越えてつながったのです。

番組をみて、感動で胸がいっぱいになりました。



 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました