柳葉敏郎ファミリーヒストリー「亡き父の絵 59歳で姉を知る」アンコール神回! - ダンス&ボーカルファン
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柳葉敏郎ファミリーヒストリー「亡き父の絵 59歳で姉を知る」アンコール神回!

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NHK朝ドラ「ブギウギ」で、ヒロインの父親を熱演する、俳優の柳葉敏郎さん。

2024年2月5日、NHKファミリーヒストリーで、柳葉敏郎さんの家族の秘話が、紹介されました。

柳葉さん自身の父は、8歳のときに病死、その人柄や才能が明かされます。

母親違いの姉がいたことも知りました。

2020年6月に放送されて大反響を呼び、神回といわれた柳葉敏郎さんのファミリーヒストリーを再編集して放送!

今回は、柳葉敏郎さんのファミリーヒストリーをご紹介します。



柳葉敏郎プロフィール

柳葉敏郎(やなぎばとしろう)

本名:山田敏郎 → 柳葉敏郎
生年月日:1961年1月3日
年齢:63歳
出身地:秋田県大仙市(旧仙北郡西仙北町)
出身高校:秋田県立角館高等学校
身長:171cm
血液型:O型
職業:俳優・歌手・タレント
あだ名:ギバちゃん
ジャンル:映画・テレビドラマ・CM
活動期間:1980年 俳優デビュー
代表作品:1984年 一世風靡セピア「前略、道の上より」
1994年 『29歳のクリスマス』
1997年 『踊る大捜査線』
2005年 『容疑者 室井慎次』
2008年 『コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命』
配偶者:既婚

柳葉敏郎さんは、1961年生まれの63歳、秋田県出身です。

路上パフォーマンス集団「劇団一世風靡」の結成から、音楽グループ「一世風靡セピア」のメンバーとして、一躍有名になりました。

1980年代後半から、トレンディ俳優として圧倒的な支持を集めます。

その後、1997年から出演した『踊る大捜査線』シリーズの室井慎次役は、柳葉さんの当たり役となりましたね!

NHK朝ドラや大河ドラマ、時代劇などにも多数出演しています。

柳葉さんと妻について詳しくまとめた記事はコチラ!

>>柳葉敏郎は妻・子供と秋田移住!PTA学年部長立候補で状況好転!?



柳葉敏郎ファミリーヒストリーあらすじ

ファミリーヒストリー
アンコール柳葉敏郎~亡き父の絵 59歳で姉を知る~

柳葉敏郎さんは、8歳のときに父を亡くしています。

秋田県内で映画館の絵看板を描く仕事をしていたといいます。

もともと絵が得意で、若い頃は県の美術展で何度も入選していたそうです。

しかし柳葉さんは、その絵を見たことがありませんでした。

それが今回、入選作などの絵が数枚見つかったのです。

また父は、母とは再婚であったことが分かりました。

そして、柳葉さんが会ったことのない姉の存在を知ることになるのです。

衝撃の事実に驚き、涙を流し、姉弟が増えたことを喜んだ柳葉さんでした。

ネットには、大反響だった初回放送をみた感動の声がたくさん上がっています。

もう一度観たかった方にとっても、初めて観る方にとっても、待ちに待った放送回です。



柳葉敏郎ファミリーヒストリー!父の死・母の再婚

柳葉敏郎さんの父・山田四郎さんは、母・和子さんと結婚し、昭和36年に長男・敏郎さんを授かりました。

父・四郎さんは、柳葉さんが8歳のとき、38歳の若さで脳出血のため亡くなりました。

母・和子さんは、実家のある秋田県大仙市刈和野で子供を育て、再婚して柳葉姓となったのです。

当時教師だった和子さんに代わり、和子さんの母(柳葉さんの祖母)が子育てを手伝っていたといいます。



柳葉敏郎ファミリーヒストリー!母方のルーツを探る

和子さんのルーツを探るため、取材班は、刈和野にある和子さんの実家・佐々木家を訪ねます。

柳葉さんのおじとおばに当たる方が登場しました。

母親に代わって柳葉さんを育ててくれた祖母・絹さんは、平成2年に亡くなっています。

柳葉さんを「敏郎ちゃん」と呼び、当時の写真を見せてくださいました。

絹さんは、孫・柳葉さんを「私は敏郎命だから!」といい、ほかの家族には厳しかったけれど、溺愛していたといいます。

家族から見ても、かわいがりすぎでは?と思うほど、かわいがっていたのだそうです。

柳葉さん、お母さんは忙しい方でしたが、絹さんに育てられてとても幸せですね。



柳葉敏郎ファミリーヒストリー!祖母・絹のルーツを探る

柳葉さんの祖母・絹さんのルーツとなるのが、秋田県角館にある大和田家。

そこで慶応2年に生まれたのが、絹さんの祖母(柳葉さんの高祖母)、シメさんです。

シメさんは、明治7年、新政府による学校制度が始まると、角館小学校の第一期生として入学

当時は、女性が学業に就くことはとても珍しく、たったの2.5%という時代だったのです。

シメさんは、時代の先端をゆく女性だったのですね。

明治16年、シメさんは、刈和野で菓子屋を営む佐々木末五郎さんの元へ嫁ぎました。

取材班は、末五郎さんとシメさんのひ孫にあたる、佐々木憲一さんのもとを訪ねます。

憲一さんが、シメさんについて語りました。

シメさんは非常に優秀な女性だったので、子供たちはみなシメさんが教育し、とても優秀に育ったそうです。

シメさんの息子で、柳葉さんの曽祖父にあたる房吉さんは、教師の道を歩みました。

その房吉さんの娘が、絹さんです。

絹さんも優秀であったため、教師になることを夢に見ます。

しかし、家が貧しかったため、絹さんは奉公に出ることになり、学業の道は弟に譲りました。

絹さんの弟・典治さんは、師範学校に進み、のちに小学校の校長を務めています。

そして昭和10年、絹さんは佐々木子之助さんとお見合いをして結婚しました。



柳葉敏郎ファミリーヒストリー!祖父・子之助のルーツを探る

次に、絹さんと子之助さんの息子であり、柳葉さんのおじにあたる佐々木孝雄さんが登場しました。

子之助さんは、結婚前の昭和3年から横須賀海兵団に入団していました。

当時20歳でした。

子之助さんは、大仙市土川心像(こころやり)地区の農家の長男です。

兄弟が多かったため、口減らしのために海兵団に志願したといいます。

復員後は、1年を通して東京へ出稼ぎに出ました。

実家の田畑は、志願に際し姉夫婦にゆだねたため、農業をする土地もなかったのです。

姉夫婦の孫の代、佐々木家を継ぐ文雄さんが登場します。

80歳を過ぎてなお、現役を続けた子之助さん。

文雄さんは、子之助さんを

「がんばったおじいちゃんだ。俺はそう思ってる。働き者だ。」

と称えました。

当時子之助さんが出稼ぎに行く日の早朝、絹さんに起こされたという柳葉さん。

おじいちゃんの靴を磨いて駄賃をもらうようにいわれ、よく靴磨きをしたのだそうです。

子之助さんは、83歳のとき、病気で亡くなりました。



柳葉敏郎ファミリーヒストリー!母・和子のルーツを探る

絹さんと子之助さんの子供は、6人。

一番上が、柳葉さんの母・和子さんです。

教育熱心だった絹さんに育てられ、和子さんは秋田大学に進学しました。

卒業後は、小学校の教師となります。

それは、母・絹さんのたっての願いでもありました。

「男に負けないように稼ぐために、教師になってほしい」

と。

教師になりたかった絹さん自身の夢を、和子さんに託したのかもしれませんね。

その後、大曲の看板屋さんで働いていた山田四郎さんと出会い、結婚しました。

和子さんが24歳、四郎さんが28歳のことでした。

柳葉さんは、番組でここまでのVTRをみて、「全然知らない話ばかりだった、女性軍が強いですね。」と語っていました。



柳葉敏郎ファミリーヒストリー!父・四郎のルーツを探る

8歳のとき死別し、柳葉さんにとって、ずっと遠い存在だった父・四郎さん。

柳葉さんは、父のルーツをずっと知りたかったのだといいます。

番組は、秋田市の山田家を訪ねました。

四郎さんは、秋田市の山田家に、8人兄弟の四男として生まれました。

四男だから四郎と名付けられたのですね。

皆、手先が器用で、四郎さんも幼いころから工作好きで、絵を描くことが得意だったといいます。

番組は、四郎さんの息子である山田家当主の俊美さんの妻・徹子さんのもとを訪ねました。

山田家には、四郎さんの絵が保管されていました。

大胆さと繊細さがうかがえる、花の絵です。



秋田で、看板描きの仕事に就いた四郎さんは、声がかかれば請け負う、一匹狼、フリーランスでした。

四郎さんは、一緒に暮らす姪の厚子さんをかわいがっていたそうです。

厚子さんは、柳葉さんのいとこにあたる存在ですね。

その後、厚子さんが親戚から預かっていたという、四郎さんの別の作品を見せてくれました。

秋田の名勝、小安峡を描いた油絵です。

また、四郎さんが作ったというクリスマスツリーと家族の写真を見せてくれました。

子供がだいすきだったという四郎さんは、毎年飾りをたくさんつけたクリスマスツリーを作ってくれたといいます。

そんな四郎さんが、山田家に和子さんを連れてきた日のことを、厚子さんはよく憶えているのだそう。

和子さんに対しては、元気ではつらつとした女性だというのが第一印象だったといいます。

実家で晩ご飯を食べて家に帰るときに、四郎さんと和子さんは相合傘で帰ったことがとても印象に残っているのだそうです。

とても仲が良かったのでしょうね。

ほほえましいエピソードです。



柳葉敏郎ファミリーヒストリー!敏郎の誕生、別れ、四郎の死

昭和36年、柳葉さんが誕生します。

翌年には、妹も生まれました。

このころ、四郎さんは菓子屋の包装紙のデザインを請け負います。

当時のものが残っていました。

描かれているのは、なまはげや鎌倉など、秋田名物の数々。

看板以外にデザインでも才能を発揮していた四郎さん。

しかし、お給料をただの一度も妻の和子さんに渡したことはなかったのです。

その後、四郎さんと和子さんは別居し、父と子も離ればなれになりました。

柳葉さんが5歳のころでした。

和子さんは、母・絹さんから、

「男に負けないように稼ぐために、教師になってほしい」

といわれて育ちました。

ですから、四郎さんと離婚しても、子供を育てていける自信と覚悟を持てていたのかもしれませんね。

四郎さんは、夢を持っていた方だったのでしょう。

とてもおしゃれな人だったといいます。

おしゃれで、絵を描いて。

環境が許せば、もしかしたらもっともっと素晴らしい絵をたくさん描いていたのかもしれません。

半面、現実の生活では、妻に一切お金を渡すことができなかった。

そのことは、四郎さん自身の心の辛い部分だったのではないでしょうか。

四郎さんは、芸術家として生きたのかもしれないと感じました。

秋田市で看護師をしていた和子さんの妹・睦子さん(柳葉さんのおば)は、四郎さんに頼まれて、成長していく柳葉さんの写真を渡していました。

四郎さんは、離ればなれになった子供たちのことを、ずっと気にかけていたのですね。

本当は、写真ではなく、実際に会いたいと思っていたことでしょう。

このことは、和子さんには内緒だったようです。

四郎さんが、こっそり睦子さんの寮に写真を受け取りに来たのだといいます。

昭和44年6月22日、一人暮らしをしていた四郎さんは脳出血に倒れ、あっけなくこの世を去りました。

火葬場で棺に火をつけるのは、まだ8歳だった柳葉さんの役目でした。



柳葉敏郎ファミリーヒストリー!初めて目にする父の絵

取材を進めるなかで、和子さんから四郎さんの絵が送られてきました。

県の美術展覧会で入選したほどの力作です。

名峰・鳥海山と秋田おばこ。

四郎さんの故郷への思いがあふれるデザイン画です。

意匠を凝らした文字、新紙で表現した雪解け。

秋田おばこの着物は、布きれを貼り付けています。

奨励賞という高評価を受けた作品です。

四郎さんは、県の美術展覧会で4度も入選しています。

雅号は、「山田志郎」。

柳葉さんは、今回紹介されたこれらの絵を、番組内で初めて見たそうです。

今回の取材で新たに見つかった四郎さんの絵は、4作品にのぼりました。

長男である柳葉さんが生まれた年に描かれたものだということを知り、小さなことひとつひとつが、すべて自身とつながっている気がする、と、柳葉さんは涙を流していました。

父と一緒にお酒を飲みたかったと…。

たとえ離ればなれで暮らしたとしても、もし今も四郎さんがご健在だったら、父子でどんな話をしたのでしょうね。

今の柳葉さんの活躍をみて、四郎さんはどんな言葉をかけたでしょうか。



柳葉敏郎ファミリーヒストリー!明かされる姉の存在

今回の取材で四郎さんの絵を探すうちに、思わぬ事実が浮かび上がりました。

実は、四郎さんは和子さんと結婚する前に、別の女性と結婚していたのです。

山田家の人々は、知っていながらあえてこのことは口にせず、柳葉さんと接してきました。

相手の名は、佐藤京子さん。

昭和32年に結婚しますが、金銭的な問題から、2年ほどで離婚。

四郎さんと和子さんも、同じような理由で離婚に至ってしまったということでしょうか?

四郎さんと京子さんは、ひとみさんという女の子をもうけていました。

柳葉さんには、母親違いの姉がいたのです。

柳葉さんのいとこ・厚子さんにとって、ひとみさんは妹のような存在だったそうですが、ひとみさんが1歳くらいのときから、もう会うことはなくなったのだそうです。

ひとみさんは、秋田県にかほ市象潟(きさかた)に移り住んだといい、その後の消息は分かっていませんでした。



柳葉敏郎ファミリーヒストリー!母親違いの姉・ひとみを訪ねる

取材班は、手掛かりを求めて象潟を訪ねました。

離婚から、約60年の歳月が過ぎています。

京子さんが生きていれば84歳、ひとみさんは60歳を超えていることになります。

住まいも名字も変わっているかもしれませんね。

しかし、親子を知る人物が見つかったのです!

ともに健在とのこと。

そして、娘のひとみさんを呼び出してくださったのです!

そのときの

「私を探してくれている人がいるんですか」

というのひとみさんの言葉が、とても印象的でした。

後の項でお伝えしますが、この言葉の裏には、とても深いひとみさんの気持ちが隠されていたのだと感じました。



京子さんは、四郎さんと離婚後、再婚していました。

四郎さんのその後のことは、知らないとのことでした。

ひとみさんは結婚し、母親の世話をしながら、鳥海山を見上げるこの象潟で暮らしてきたといいます。

最初の取材は、録音だけが許されました。

四郎さんが38歳の若さで亡くなったことを伝えると、ひとみさんはとても驚いていました。

取材者は、こう伝えました。

「もしかしたら、ご存じないかもしれない。四郎さんのその後。山田四郎さんが結婚して、その長男が、柳葉敏郎さん。」

ひとみさんは、「え~!?」と声を上げました。

ひとみさん:「本当?じゃあ私といとこなの?」

取材者:「いとこというか、きょうだい。」

ひとみさん:「鳥肌!うそ、本当?びっくり。まだ信じられない。」

ひとみさんは、本当に驚いていました。

驚いて当然ですよね!

突然「あなたの弟は柳葉敏郎さんです」といわれるのですから!!

私もテレビを観ていて鳥肌が立ってしまいました。

ワイプに映った柳葉さんは、ずっと口元に手を添えて穏やかな表情でVTRを見つめていました。



ひとみさんは、父親の顔を知らなかったといいます。

唯一の四郎さんの写真は、ひとみさん自身が赤ちゃんのときの写真に写りこんでいた、腕だけでした。

ひとみさんは、育ての父が亡くなったことを機に、自らのルーツを求めて、電話でいとこの厚子さんを探したのだそうです、

秋田市内の山田さんに、片っ端から電話をかけて確認しましたが、手掛かりは見つからなかったといいます。

秋田市内に、「山田さん」の電話番号がいくつあったことか。

何十件?何百件?でしょうか。

これだけ電話をかけ続けたけれど、全く手掛かりをつかめなかったひとみさん。

この番組がひとみさんを探していると知ったときに発した

「私を探してくれている人がいるんですか」

という言葉には、ひとみさんのこれまでの思いがあふれているような気がしました。

名前しか知らない父。

今まで探すことができなかった父。

 手掛かりは父の片腕が写り込んだ写真と、赤ちゃんだったひとみさんと一緒に写るいとこの女性だけだったのですね。

そして偶然が重なって、この日を迎えました。

ひとみさんが、父・四郎さんの写真を初めて目にすることができたのです。

「話をしてみたい」

「声がききたい」

ひとみさんはつぶやきました。

育ててくれた父を本当の父だと思ってきたひとみさん。

すごく大切に育ててもらったので、亡くなるまで四郎さんのことは話したことがなかったといいます。

育ての父が亡くなってから、四郎さんのお墓参りをしたいと母・京子さんに相談すると、「いいんじゃないか」ということで、今年の春(取材当時2020年)に探そうと思っていたところに、この取材の話があったのだそうです。

ひとみさんは、厚子さんとの写真を数枚、大切に持っていました。

厚子さんにずっと会いたいと思ってきたのです。



ひとみさんは、京子さんと四郎さんが使っていたという食器棚を保管していました。

ステンドグラスのようなガラスの装飾は、四郎さんによるもの。

京子さん・ひとみさん親子にとって、その色、その図柄が、四郎さんの忘れ形見となっています。

ワイプの柳葉さんは、涙が止まらない様子。

「お姉ちゃんっすね。うれしいっす!すっげ~うれしいっすね!俺、お兄ちゃんお姉ちゃんが欲しかったんですよ、ちっちゃいころから。」

と泣き笑いする柳葉さん。

柳葉さんは、お姉さんの存在を全く知らなかったのです。

「会ってみたいっすね。俺の持ってる四郎の思い出はほんの少ししかないですけど…。それでよければお話して。」

柳葉さんほどの著名人でも、知らなかった肉親の存在が発覚するなんていうことがあるのかと、改めて驚きました。

当たり前のことですが、肉親のことは、著名人も一般人もないのですよね。

同じ人間。

父親と別れ、母は忙しく働き…

でも祖母・絹さんから深い愛情をかけられて育った柳葉さんは、幸せだったことでしょう。

ただ、柳葉さんがさみしさを抱えていたことも事実で、姉がいたことを知り、心から喜んだのですね。

さぁ、ついに姉と弟が初対面を果たします!



柳葉敏郎ファミリーヒストリー!姉から弟への手紙

ひとみさんは、取材者に柳葉さん宛の手紙を託しました。

柳葉敏郎様

突然のお手紙を差し上げる失礼をお許しください。
この度初めて、柳葉さんのお父様が私の実の父、四郎であったことを知り、ただただ驚くばかりです。
母に、父四郎のことを聞くと、有名ではなかったものの絵を描きながら秋田県内の看板を描く仕事をしていたこと、穏やかでとても子煩悩だったこと、そしてとてもおしゃれな人だったと教えてくれました。
私にとって柳葉さんは雲の上の存在です。以前あるイベントを見に行ったとき、柳葉さんご本人をお見かけしたことがありました。すぐ近くをすれ違ったときに、とてもドキドキしたことを覚えています。
今私は、主人と娘との3人暮らしをしています。3人とも、柳葉さんとのご縁を知り、言葉にならないほどの驚きでしたが、同時に、父四郎が残してくれたつながりに、感謝しなければいけないと思いました。
柳葉さんにとって、父四郎はどのような存在だったのでしょうか。息子であり、同じ男として、父親に対する思いや存在は、とても大きかったのではないでしょうか。
きっと父四郎は、立派になった息子をとても誇りに思っていると思います。
これからも柳葉さんのご活躍を小間まで以上に応援していきたいと思っています。
くれぐれもご無理のないようご自愛ください。

出展:NHKファミリーヒストリー

番組内でこの手紙が読み上げられるなか、現在のひとみさんの家族写真が映されました。

3人とも、とても穏やかな表情の写真でした。



柳葉敏郎ファミリーヒストリー!厚子とひとみの再会、父のお墓参り

その後、厚子さんとひとみさんは、番組の仲介で、電話連絡を取ることができました。

お互いを気遣い、お互いを懐かしむ様子が印象的でした。

そして、令和2年3月、ついにひとみさんが四郎さんのお墓参りをするために、秋田市の山田家に向かいます。

山田家には、四郎さんの息子である俊美さんの妻・徹子さんが待っていました。

厚子さんも駆けつけました。

ひとみさんの到着。

ついに再会できたのです!

お互い、涙ながらに「会いたかった、会えてよかった、元気でよかった」と胸がいっぱいの様子でした。

3人でのお墓参り。

「四郎おじさん、ひとみよく来たね~!って今日は天国で宴会してるわ」

念願がかなったというひとみさん。

まさかこんなに早くお墓に手を合わせることができると思っていなかったと明かしていました。



柳葉敏郎ファミリーヒストリー!姉と弟の初対面

父・四郎さんの命日、姉と弟は対面を果たしました。

柳葉さんは、自身のファミリーヒストリーを知り、「力づけられました」と明かしました。

柳葉さんの妻について気になる方は、こちらの記事もご覧ください↓↓



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