要潤ファミリーヒストリーあらすじをご紹介!“遠大な夢”を追った家族たちとは? - ダンス&ボーカルファン
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要潤ファミリーヒストリーあらすじをご紹介!“遠大な夢”を追った家族たちとは?

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NHK朝ドラ「らんまん」で教授役が話題となった、俳優の要潤さん。

2024年3月13日、NHKファミリーヒストリーで、要潤さんの家族の秘話が、明かされました。

本記事では、要潤さんのファミリーヒストリーのあらすじをご紹介します。



要潤プロフィール

 

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要潤(かなめじゅん)

本名:要潤
生年月日:1981年2月21日
年齢:43歳
出身地:香川県
出身高校:香川県立高瀬高等学校
身長:185cm
血液型:A型
特技:乗馬・手品
趣味:料理
配偶者:既婚
デビュー年:2001年
デビュー作:仮面ライダーアギト 氷川誠/G3-X役
代表作:
2003年 『GOOD LUCK!!』
2003年 『動物のお医者さん』
2008年 『あしたの、喜多善男』
2008年 『流星の絆』
2009年 『タイムスクープハンター』
2019年 『キングダム』
2023年 『らんまん』

要潤さんは、小学4年生のときに陸上クラブに入りました。

それをきっかけに、中学と高校では陸上部に所属し、オリンピックも目指していたのだそう。

しかし、高校3年生のときに挫折を経験し、以前から興味があった俳優を目指したのだといいます。

高校卒業後、両親を説得し、夜行バスで上京した要潤さん。

上京後はさまざまなアルバイトをしながら、オーディションにチャレンジし続けました。

芸能界に入る前は、イタリア料理店で料理人として働いていたのだそうです。

だから、今でも料理が趣味なのですね!

要潤さんがどんな料理を作るのか、見てみたいですね。



要潤ファミリーヒストリーあらすじ

いま、さまざまな作品に出演している人気俳優の要潤さん。

両親への感謝を胸に、23年間俳優を続けてきました。

「照れくさいけど 育ててくれたありがとう的な感じですかね」

仮面ライダーG3でデビューすると、人気は上昇。

朝ドラ「らんまん」では、ときに傲慢な教授役が話題となりましたよね。

ふるさと香川の顔としても活躍する要さん。

すっと気になっていたことがありました。

父の生い立ちや祖父母のことを聞いたことがなかったのです。

いままでお互いに避けてきた話題のようでした。

でも今ならきちんと聞きたいと思うし、あらためて受け止められるかなという気持ちでこの番組に臨んだのです。

要潤さんの父方は代々「遠大な夢」を抱いてきたといいます。

曽祖父はなんと約1万年前の石器を発掘したのだそう。

そして祖父は、激戦地で村民から牛乳をもらって救われたことがきっかけで、酪農家になりました。

父はプロゴルファーを目指したといいます。

祖父と父は、母が早くに亡くなってしまい、父子家庭で育ちました。

当時の心情を番組で初めて知り、要潤さんは何を思われたのでしょうか…。

母方は包容力を受け継ぎます。

28年前に1カ月要家にホームステイした女性がいます。

要潤さんの母を忘れられず、アメリカから訪ねてくるほどなのだそうです。

それでは、番組の内容を詳しくみていきましょう。



要潤ファミリーヒストリー!父方のルーツ:石器を発見した曽祖父

要潤さんのふるさとは、香川県三豊市。

父方のルーツをたどるためにまず訪ねたのは、要潤さんの父・要由起男さんと母・多喜代さんの暮らす実家です。

戸籍によると、要家の江戸後期の先祖は、香川県綾歌郡松山村、現在の坂出市に暮らしていました。

遠縁にあたる要照雄さんが、伝え聞いていたことがあります。

要家のルーツは岡山県にあると。

高松城の石垣を作るために、岡山からやってきたというのです。

もともと高松城は、瀬戸内海に面した日本最大級の海城。

水軍や商船のための港を備えていました。

海沿いのぜい弱な地盤に石垣を積むため腕のある職人(石工)が必要だったといいます。

技術を持っているだけでなく、全体として組み立てる設計能力が求められていたのですね。

要家の先祖は、非常に素晴らしい頭脳を持った石工であったことは間違いなさそうです。

要潤さんは、高松城に自身のルーツがあることに嬉しさを感じている様子でした。

「要」という姓について

親戚や郷土史家の間では、一同が住んだ場所が高松と丸亀のほうを結ぶ街道の所だったことから、「要」という姓を受け継いだのではないかといわれているそうです。



長い年月が経ち、明治24年に生まれたのが、要潤さんの曽祖父・要萬二さんです。

農業のかたわら「石を探す」ことに並々ならぬ情熱を燃やし続けたといいます。

石器などを発見していたのですね。

なんと、約一万年前の旧石器時代の石器・槍先を、城山(きやま)という場所で発見し、大きな話題となりました。

城山の遺跡というのは、とても有名な遺跡ですが、要萬二さんが槍先を見つけたことで研究が始まったともいえるのだそうです。

すごいことですね!

そんな要萬二さんは、大正8年(1919年)、28歳のときに隣村のイトエさんと結婚しました。

翌年、要潤さんの祖父・博さんが誕生します。

しかし、博さんが4歳のときにイトエさんは結核を患い亡くなってしまいました。

萬二さんのもとには、幼い博さんと妹が残されました。



要潤ファミリーヒストリー!父方のルーツ:1杯の牛乳に命を救われた祖父

番組取材班は、その後の暮らしを知る要家本家の吉則さん(要潤さんのおじ)一家を訪ねます。

萬二さんは、男手ひとつで苦労しながらも、石探しの夢を失わなかったといいます。

そんな萬二さんをみて育った祖父・博さんは、自立心が強く柔道でも黒帯のたくましい青年でした。

昭和15年、20歳のとき、召集されて山砲兵として中国の戦地へ赴きます。

「人がすることにできないことはない」という精神で、厳しい指導に耐えながらも人より先に大砲の使い方などを習得したといいます。

しかし、太平洋戦争では、そんな博さんでも太刀打ちできない戦場に派遣されました。

昭和19年(1944年)、インドにおけるインパール作戦。

後に最も過酷で無謀とされた戦いです。

退却路は「白骨街道」と呼ばれました。

その呼び名だけで、どれだけすさまじい戦争であったことか…

もはや、想像も及びません。

そして翌年、ビルマにおけるイラワジ会戦に参戦します。

ここで、次々とマラリアに感染するなどして戦死していったのだそう。

ついに博さんも、マラリアに罹患し、意識ももうろうとなり、死線をさまよいました。

そんな博さんを救ったのが、ビルマの村人が分け与えてくれた、1杯の牛乳。

なんとか生き延びることができたのです。



昭和22年、博さんは6年9か月ぶりにふるさとに帰ります。

ほどなく博さんは、近隣の女性・小原キヌコさんと結婚。

その後、牛を飼い始めました。

終戦後のひもじさ、栄養の行き届かない子供たち。

そんななか、自分の命を救ってくれた牛乳を多くの人に飲ませたいと思ったのです。

酪農の経験はなく、一からの挑戦。

牛乳の味をよくする飼料を試行錯誤し、牛の出産も夜を徹して見守りました。

戦争で一命をとりとめ生きて帰ってこられたことで、とにかく何かしなければ、という思いで、牛を飼い始めたのですね。

なんでもやったらできる!というチャレンジ精神旺盛の博さんです。

みんなでまた頑張って生きていこうという強い意志があったのでしょう。

牛がいたことは記憶に残っているという要潤さん。

番組内でこのVTRをみて、その理由がわかったようですね。



要潤ファミリーヒストリー!父方のルーツ:祖母を知る

終戦後まもなく、ふるさとで家族となった、要博さんと妻・キヌコさん。

要潤さんの知りたかった祖父母です。

昭和26年には、長男に続き次男・由起男さんが誕生します。

のちの要潤さんの父親ですね。

一家は平穏な日々を過ごします。

ところが、結婚から7年後、キヌコさんは突然亡くなってしまいます。

生前の母のことは何も知らず、由起男さんは気になっていたそうです。

要潤さんの祖母である旧姓・小原キヌコさんは、いったいどんな方だったのでしょうか。

キヌコさんは、昭和3年に裕福な商家の娘・小原アキエさんのもとに誕生しました。

その戸籍に父親の名はありませんでした。

結婚は許されなかった内縁の夫(俗名・又三郎)の位牌だけが残されていました。

博打で小原家の財産を使い果たしてしまった又三郎さんは、キヌコさんが7歳のときに64歳で病死したのだそうです。

残された兄と姉は奉公に。

幼い弟は養子に出され、一家は離散。

キヌコさんだけが母のもとに残されました。

生活が苦しいなかで育ったキヌコさんは、暗い雰囲気の少女だったのだそう。

そんなキヌコさんが嫁いだのが、隣牟田の要家の跡取り・博さんだったというわけです。

結婚後、酪農を始めたころの牛舎が、今も残されていました。

キヌコさんは金策に奔走して牛を買い、牛乳の生産量を増やします。

さらに、山を開墾しみかん畑にするなど、夫と同じ夢を追うようになったのです。

そんな暮らしは、キヌコさんを次第に変えていきました。

結婚後のキヌコさんは、とにかく前向きで明るい、働き者の女性となっていたそうです。

子供二人をしっかりと育て、ようやく幸せを手にしたキヌコさんでしたが、突然の悲劇に襲われます。

なんと、みかん畑で足を滑らせ、池に転落してしまい、亡くなってしまったのです。

自身も早くに母親を亡くしてしまった博さんのもとには、4人の幼い子供が残されました。



博さんが、妻のキヌコさんが亡くなってから、書き続けていた日記が残されています。

そこには、心のうちのさみしさや、息子の由起男さんを心配する気持ちなどが書き連ねられていました。

要潤さんの父親である由起男さんが、当時を振り返ります。

小学校で、母の日に赤いカーネーションが配られたのですが、自分には母親がいないので白いカーネーションだったのだそう。

家に帰れば、一生懸命自分たちを育ててくれた父親はいるけれど、もしここに母親がいれば、親子との関係、兄弟の関係もまた違うものになっていただろう、と。

それでも、博さんは、自分が味わったさみしさをできるだけ子供たちに味わわせないように、精一杯子供たちに向き合っていたのです。

子供の日にはおいしい料理を作ったり、夜なべして子供の服もつくろったりしたことが、日記に記されていました。

周囲からは、再婚の勧めもあったようですが、子供を動揺させたくないと、博さんは断っていたようです。

子育てや家事に苦労した博さんは、それでもみかん畑や牛の数を増やして自身の夢に挑みました。

牛乳をたくさん作って、学校給食として提供し、子供たちを健康にしていきたいと夢を語る博さんは、牛のように優しい目をしていたと、長男の吉則さんが当時を振り返ります。

今、こうして日記を読んで、はじめて父親である博さんの気持ちが理解できたと明かしていました。



要潤ファミリーヒストリー!父方のルーツ:父の遠大な夢とは

そんな博さんに育てられた由起男さんは、中学時代、野球に情熱を燃やします。

工業高校に進むと、学校からの紹介で大阪のエレベーター補修会社に就職しました。

安定した仕事に就きましたが、父・博さんの言葉がよみがえります。

「遠大な夢を持て」とよくいわれたのだそうです。

その言葉は頭にずっと残っているのだといいます。

ある日、由起男さんはテレビにくぎづけとなります。

写っていたのは、プロゴルファーのジャンボ尾崎さん。

プロ野球選手から転身し、大活躍している尾崎さんにあこがれを抱いていたのだそう。

そして、22歳のとき、由起男さんは会社を辞めて帰郷し、香川のゴルフ場で働きながらプロゴルファーを目指します。

すごい決断ですね!

遠大な夢に向かい、踏み出したのですね!



要潤ファミリーヒストリー!母方のルーツ

要潤さんの母・多喜代さんは、25年間マナー教室を開くなどして行儀作法の指導を続けています。

生徒は、常に50人を超えるほど慕われてきました。

その人柄はどのように育まれたのか。

要潤さんの母方のルーツに迫ります。

要多喜代さんの弟・薫さんが成果を案内してくれました。

多喜代さんの父・浦川信一さんは、浚渫船の船長。

一年の半分以上、日本各地を飛び回っていました。

母・伊津緒さんは、夫の両親や兄弟の世話、菊谷は煙草の栽培も手伝い、働き通しでした。

それでも笑顔を絶やさず、家族を守ったといいます。

そんな母の包容力は、多喜代さんに受け継がれます。

中学・高校の友人に聞くと、多喜代は背が高くボーイッシュで、短距離が得意だったといいます。

頼りがいのあるお姉さん的存在だったのだとか。

高校卒業後、地元のゴルフ場に就職した多喜代さんは、要由起男さんと出会います。

昭和52年(1977年)、由起男さんと多喜代さんは結婚。

男所帯で育ってきた由起男さんの日常は大きく変わりました。

結婚して初めて、クリームシチューを食べたのだそうですよ。



そして、昭和56年に次男・要潤さんが誕生します。

由起男さんは、30歳のとき支配人を任され、プロゴルファーを諦めます。

しかし1990年代初頭、由起男さんに試練が襲います。

バブル経済が崩壊すると、企業の接待ゴルフなどが激減し、ゴルフ場の倒産も相次ぎました。

支配人の由起男さんは、業績悪化でキャディーなど人件費の削減を迫られます。

ストレスで体に支障をきたすこともあったのだそう。

そんなときに由起男さんを支えたのは、多喜代さんの作った温かい食事と安らぐ家庭でした。

VTRには、多喜代さん手作りの和食メニューが映し出されます。

上品に並べられた食卓からは、愛情があふれて見えました。

会社から帰って、多喜代さんの顔をみることで癒やされたのだそうです。

素敵ですね。

要潤さんは、そんな温かい家庭で育ったのですね。

そういえば、要さんは料理が趣味のひとつでもあるのですよね。

たくさんの料理が並ぶ家庭で育ったことで、自然と料理好きになったのかもしれません。

要潤さんの兄・悠葵(ゆうき)さんが、母親について語りました。

どんな話でも聞いてくれて、しっかり答えも返してくれたので、中高生のころもいろいろな悩みを相談していたのだそうです。

思春期の息子と母親、とてもよい親子関係だったのですね。



要潤ファミリーヒストリー!母方のルーツ:ホームステイした留学生があかす

かつて要家にホームステイをした留学生が、アメリカから多喜代さんを訪ねてきました。

デボラ・リウさんが滞在したのは、わずか1か月。

それでも28年間、多喜代さんを慕う気持ちは消えませんでした。

本当の家族のように愛情に満ちていて とても思いやりがありました

潤はまだ少年で とてもやさしかった

彼のお母さんのように



要潤ファミリーヒストリー!オリンピックを目指した高校時代の挫折とは

そのころの要潤さんは、中学から始めた陸上競技に熱中。

とくにハードルが得意で、めきめきと頭角を現します。

母校・高瀬高等学校陸上部。

高校入学後も、記録を伸ばしたことから、将来を嘱望される注目選手になりました。

中学・高校時代、要潤さんの陸上を見守っていた顧問の本田さんが取材に応じます。

要潤さんは、走り幅跳びの記録が2か月足らずで1メートル以上伸びたというのです。

オリンピックも十分視野に入れられる記録だったといいます。

そして迎えた、平成10年の高校3年の四国インターハイ。

大学への推薦入学、そして世界の舞台を目指すスタートラインでした。

しかし、400メートルハードルのレースで転倒。

棄権となってしまったのです。

要潤さんが当時の心境をあかします。

あのときの陸上のつらさより 今のところ生きていてつらいことはない

あれを超えるものはない

8台目で転んだが それ以上練習していてもその8台目のハードルを越えることがなかった

倒してしまったり…

もうこれダメなんだって 自分のなかでもトラウマになってるなって

そこでもう 閉ざされたと思ってしまった

道が閉ざされてしまったと



しかし、そこから要潤さんが俳優の道に進もうと思ったのはなぜなのか。

要さんは「どうしてなんですかね~」とつぶやきながらも、「本当に、ふって出てきたんですよね」とあかしました。

陸上がだめだ 俳優になろう

と。

両親にも夢を告げた要さんは、高校の卒業式の翌日、上京しました。

部屋探しのため同行した多喜代さんは、案じる気持ちを抑えていたといいます。

「1か月分の生活費は出します そんなに言うのなら あとはじぶんでしなさい」

そう伝えて、引かれる気持ちを抑え、多喜代さんはもう後ろを振り向けなかったそうです。

”かわいい子には旅をさせよ”という気持ちだったとあかしていました。

要潤さんは、弁当や・警備員・工場などアルバイトを掛け持ちしながら、オーディションを受け続けます。

当時一緒に暮らしていた神原さんが当時を振り返ります。

週7日間夜中もバイトして、オーディションにも行く生活だった要さん。

コンビニ弁当しか食べておらず、過労で血尿まで出たと言っていたそうなのです。



要潤ファミリーヒストリー!俳優としての成功、夢は世界へ

上京から2年後、要潤さんに大きな転機が訪れます。

2001年、ついにオーディションでライダー役に抜擢されたのです!

その後の活躍は、ご存じのとおり。

大河ドラマ「龍馬伝」、NHK朝ドラ「らんまん」への出演が印象的ですね。

現在の目標は、海外に認められる俳優だといいます。

40歳を過ぎても、夢を追い続けています。

ちなみに、私個人としては、ドラマ「動物のお医者さん」の二階堂くんの役や、「、タイムスクープハンター」の沢嶋雄一さんのイメージもかなり強いのですが…。



要潤ファミリーヒストリー!まとめ

スタジオの要潤さんが、番組を振り返ります。

いまの自分が、自身のファミリーヒストリーを知ることができてよかったとあかしました。

要潤さん自身も親になって、親の世代の気持ちがわかり、すごく身に染みたそうです。

自身のなかで、チャレンジ精神や夢を持って生きていきたいなというのは、どこからきているのだろうかと思いながら生きてきた要潤さん。

今回ファミリーヒストリーのVTRを観て、先祖からその魂みたいなものが、脈々と受け継がれてきたのだとあらためて実感したといいます。

両親の要由起男さんと多喜代さんには、毎月必ず訪れる場所があります。

みかん畑を見上げる墓。

開墾した祖父母、博さんとキヌコさんが眠っています。

要家が代々守られてきていることへの感謝の気持ちからのお参りなのだそう。

戦場で牛乳に救われた、祖父・博さん。

1頭の牛から酪農を始め、最盛期は50頭を超えるほどまでになりました。

生産量が増えたことで、学校給食にも取り入れられ、地元の小学生たちのもとへ届きました。

牛乳で、たくさんの人の健康を支えたい。

夢をかなえた祖父・博さん。



その姿勢は父・由起男さんにも受け継がれています。

72歳の今も、アマチュアゴルフの大会に挑み、たびたび好スコアを記録。

半年後の選手権を目指し、毎日練習に励んでいます。

長い間、夢を追ってもがく息子の姿も、見守り続けてきました。

今活躍する息子・要潤さんの作品については、どういう思いで観られているのでしょうか。

ベテランの俳優さんと比べて 親としては演技がまだもの足りないなと思って観ていたけれど

朝ドラ「らんまん」の田辺教授をみて これはすごいなと

いろんなことが演じられるのだなと

ちょっと一皮むけたなという感じがした

要潤さんが駆け出しのころ、由起男さんは意外な形で人気を後押ししていました。

なんと、ファンサイトに投稿した一人ひとりにメッセージを返していたのです!

本当にすてきなお父様ですね。

ファンだって、推しのお父様からメッセージを返していただけたら、本当にうれしいですよね!

「遠大な夢を持て」といわれて育った由起男さんは、自身はそこまでできなかったけれど、それを子供がしてくれたということがうれしいと語りました。

博さんの思いが、孫の要潤さんに伝わったのでしょうか。

最後に、由起男さんが要潤さんにメッセージを残します。

好きな仕事をコツコツと積み重ねていって 今に至ったんだと

思いをもって実現できたということは すごくすばらしいことであるし

ブラボーですね!

今まで父親から褒められたことは一度もなかったという要潤さん。

この言葉を聞いて、とても嬉しそうな笑顔を見せていました。

 



 

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